Beirut, Lebanon, March 1999

長年駐留を続けたシリア軍の撤退が新たな不安定要因となる中,5月29日からレバノンの国民議会選挙が実施される。宗派別に議席を予め配分するという,日本では考えられない制度は宗派間の妥協の産物。しかし長年にわたり固定された配分率は現在の宗派別人口比率とは乖離し,新たな紛争の火種となる懸念がある。

2005年2月14日(月)に反シリア派のハリリ元首相が,自動車を使った自爆テロによって暗殺された。場所は休業中のSt. Georgesホテルの前,地図上では中央地中海に面したマリーナ沿いので囲った地点である。なおホテル名の由来となったSt. George Cathedralは,旧市街の中心部にあり場所的には若干離れている。
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筆者が訪問した1999年3月当時は,1975年から1990年の15年間に及んだ内戦の傷跡が残り,街中のあちこちで駐留するシリア軍の戦車を目にした。ベイルート旧市街では戦後10年目を迎え,CDR主導の復興事業が盛んに行われていた。
CDR(Council for Development and Recontruction)

レバノンが独立した1943年にフランスの後ろ盾により不文律憲法ともいうべき国民協約(National Covenant)として合意された。すなわち、この国民協約により「公共機関における職務は認められた宗派に徒って配合される」こととなり、特に国の最高権限を有するポストについては「共和国大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム教スンニ派、国会議長はイスラム教シーア派」から選ばれることが合意されたのである。

このキリスト教徒優位の権限配分は、しかし、その後のイスラム教徒の人口増加とキリスト教徒の海外流出などによる人口停滞により、明らかに現実にそぐわないものになっていった。それにもかかわらず、その矛盾を明らかにさせない為に国勢調査は1932年以降行なわれず、イスラム教徒の不満は募っていった。単純化していえばこの不満が一大要因となって、レバノンは1975年の内戦に突入したのである。

レバノン内戦は1989年に、アルジェリア、サウジアラビア、モロッコの3カ国の調停により終結した。そして、サウジアラビアの避暑地ターイフにおいて、レバノンの国会議員が参集し国民和解憲章(National Reconciliation)を採択した。これが俗にいう「ターイフ合意」である。この新たな合意により、(1)国会議員数を6対5から5対5の同数とする、(2)大統領(キリスト教マロン派から選出)の権限を縮小し首相(イスラム教スンニ派から選出)の権限を強化する、の2点が新たな合意となつた。この変更により、今日のレバノン国民約400万人の多数を占めるイスラム教の要求は、まがりなりにも反映される形になったが、現在のキリスト教徒の人口はもはや3割にも満たない少数派になっているとみられ、さらなる権限の縮小が必要であるとするイスラム教徒と、これ以上の譲歩は認められないとするキリスト教徒との対立は根強く続き、レバノンの将来の大きな課題となっているのである。

(元駐レバノン特命全権大使 天木直人「レバノン便り」中東調査会HPより~天木氏は小泉首相のイラク政策への意見具申により更迭後,作家として活躍。)

国連ビル前から見た旧市街。写真ではよく判らないが,排気塔左側のビルをはじめ,多くが内戦で破壊され居住不可能な状態にある。St. George Cathedralは旧市街の中心にあるが,当時周囲は更地になっていた。
Damas通沿いは更地化していた。遠くに地中海方向を望む。南北に走る通の西側はイスラム教徒地区になり,街頭スピーカーからコーランが流れる。右の工事を見てわかるように,外壁だけを残して中身を建て替える計画(Street Wall Plan)。正面の建物の外壁は弾痕だらけ。ずっと奥,突き当たりに国連ビルが見える。
Maarad通側から旧市街復興地区の中心となるEtoile広場に建つ時計塔を望む。内戦で破壊された旧市街に対して,破壊されなかった新市街を東西に走るHamra通。
中東地域に4校ほどあるAmerican University Beirut校のBliss通に面した正門。AUB(American University of Beirut)の屋根越しに見る地中海。

2003年のベイルート
(5/26/2005)