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Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

高倉跨線橋(2)

陸地測量部1:20,000仮製地形図
1890(M.23)年測量
1897(M.30)年修正(徒歩連絡)
陸地測量部1:20,000京都南部
1909(M.42)年測量
1912(T.1)年発行(初代陸橋)
陸地測量部1:25,000京都東南部
1922(T.11)年測量
1925(T.14)年発行(Gerber橋)
国土地理院1:25,000京都東南部
1964(S.39)年修正
1966(S.41)年発行(Lohse橋)
京電・伏見線は,わが国初の電気軌道として1895年2月に開業したが,当初は市内線とは接続されず,1897年の地形図に見るように,東洞院通の東海道線踏切南側までだった。ただし当時の東海道線は塩小路通のすぐ南を並走しており,緯度的には市道「皆山緯6号線」付近に当たるため,図上印で示す京電停留場は,現在のセンチュリーホテル付近に相当すると考えられる。その意味では,「電気鉄道事業発祥地」の碑は北に寄り過ぎている。この地形図は97年修正であり伏見線は記入されているが,2ヶ月後に開業した七条・東洞院線は追記されていない。

市内線と伏見線の接続は,1901年4月の高倉陸橋架設により実現するが,これは1912年の地形図に登場する。一度写真を見た気がするが,京都学・歴彩館の「京の記憶アーカイブ」にも見当たらない。単線の木橋だったような記憶があるが,地形図では併用橋に見える。東海道線の位置が異なる為,現在の高倉跨線橋とは架橋位置が異なるが,平面的には現道より西寄りに直進していた点と,南側の取付部に余裕があった程度の差しか見られない。縦断的には右図※注が示すように,北側の勾配は七条通の1辻南から始まり,塩小路高倉交差点全体が嵩上げされる等の違いがある。地形図には塩小路通の側道を越える橋梁と,東洞院通の跨線橋も記載されているが,後者は歩道橋程度の物だろう。
※注:高山禮蔵,京都の電車100年の歩み,「関西の鉄道」no.32, 1995, pp.5-24.

2代目京都駅の駅舎は14年8月に開業するが,駅舎の移設は東海道線の南側への移設を伴う。これには高倉陸橋の南側取付部が支障するから,旧高倉跨線橋の架設が急がれ,駅舎開業の直前となる14年7月に竣工している。移設により北側取付部のセットバックが可能になり,塩小路高倉交差点が地平化したが,同時に八条竹田街道への接続部は従前より急カーブになったことが1925年の地形図から読み取れる。東海道線の東山トンネル経由の新線への移設は21年8月だったが,旧線(現・奈良線)への分岐もだいぶ東へ移動したことが判る。

最後の1966年発行の地形図は,新幹線建設後の状況を表す。25年時点の地形図と比較すると,新跨線橋は旧橋より更に東へ振られた上に,新幹線の軌道敷を捻出する為に南側の築堤が北寄りに移設された結果,跨線橋南側取付部の曲線が直角に近くなったことが読み取れる。この地形図には,塩小路通に北野線も記載されていて,北野線と新幹線が併存したように見えるが,無論誤りである。(5/4/2024)


高倉跨線橋

形式橋長(m)有効幅員(m)竣工
2径間ゲルバー桁橋45.1511.1251914.7
ローゼ桁橋47.2010.501954.4
京都駅から東を見ると,高倉跨線橋が市電当時と変わらぬ姿を見せるが,このローゼ橋への架替えは1954年だったので,既に70年が経過している。架替え前の橋梁の写真は見当たらないが,[1]によれば「2径間ゲルバー橋」だった。その諸元は中下図に記入した通りだが,左側の径間が27.6m,右側が17.5mだったので,広い方の径間が本線(北側)に使われたと考えるのが自然だろう。ゲルバー橋は張出し梁にヒンジを置いて,その先に吊り桁を置く構造であり,静定になるため計算は容易だが,ヒンジ部分の維持・管理に難がある※注
※注:このため京都市でも近年,加茂大橋,二条大橋,九条跨線橋等において,ゲルバー桁の連続桁化が進められている。

旧高倉跨線橋には複線軌道が敷設されたが,[2]には「架設してから40年を経過しており,その上列車が間断なく走り続ける東海道本線上であるため煤煙による腐食が甚だしいので,次第に交通に危険が感じられるようになった。そこで昭和27年に,京都大学工学部に委嘱して橋梁の耐荷試験を行い,その結果同年7月以降,橋梁上においての電車の行違いの禁止,自動車の重量制限,徐行等の交通制限を行う一方,国鉄と架替についての交渉を続けてきた」とあり,老朽化が限界に達していたことが判る。さらに56年11月に予定される東海道線全線電化に向けて,架線吊架の為に桁扛上が求められた。この結果,新高倉跨線橋では桁中心部において旧橋より約99cmの扛上が図られ,アプローチ部の勾配が33‰から40‰に引上げられた。

ただ不思議なのは,53年時点で既に旧橋の幅員不足が顕在化していたはずだが,なぜ新橋でも10.5mという従前と変わらぬ幅員が採用されたかだ。軌道は右写真のように橋の東側に寄せられていたが,この幅員だと複線外に1車線を取るのが限界であり,歩道のスペースも無い為,交通安全上問題になることは最初から解っていたはずだ。なおローゼ橋への架替に伴い,市電は塩小路高倉~京都駅南口間を54年1月19日~3月31日の2ヶ月余り運休し,この間に代行バスを運転している。(4/29/2024)

[1] 小西一郎・山田善一,既設鋼道路橋の振動減衰について,「土木学会誌」vol.38, 1953, pp.445-448.
[2] 交通局技術部,伏見線高倉跨線橋架替工事について,「市電・市バス」no.1,1954.5, pp.9-10.

市バス観光系統

2024年3月21日に6月1日からの市バス運行に関するリリースが出た。22年3月19日に休止された観光系統の復活が目玉だが,旧系統はいつの間にか廃止されたらしく,今回は全て新設扱いである。上図は6月1日からの関連系統,下図は21年1月22日の市会・産業交通水道委員会に提出された会議資料から編集したものだ。1977年4月の急行300系統(京駅-(東七)-動物-銀閣-(烏今)-京駅)を端緒とする観光系統は,92年の「チンチンバス」(臨100系統)として復活し,その後一般車を用いた101系統(京駅-二条城-金閣-北大BT),102系統(錦車-北野-金閣-北大BT)等の新設が続いた。最盛期は100-101-102-103-104-105-106-110-111の9箇系統が「急行バス」として設定されたが,梅小路絡みの103-104系統は下図の時点では廃止済だった。

6月1日からの系統では,100-102は従来と基本的に同じで,前者は五条通経由となる点が異なるが,後者の馬代通経由は維持される。しかし従来の101-111系統に相当する,京都駅から二条城・金閣寺方面への系統は設定されない。また旧105系統の廃止に伴い,京都駅から稲荷へは南5系統のみとなるが,代わって北大路BTから嵐山への109系統が新設される。ただ殆どの系統は各停として運転され,また運転日も土休日に限られるなど,下図(COVID-19前)の状態には回復していない。

旧系統新系統変更後のポイント
100京駅<七条>五坂-岡公-銀閣京駅<烏丸>五坂-岡公-銀閣特急(土休)
101京駅-堀今-金閣-大徳-北大BT京駅<七条>五坂<烏丸>京駅特急:反時計回り(特206D)(土休)
102錦車-北野-金閣-大徳-北大BT左に同じ区間急行:今出川は各停(土休)
105京駅-稲荷-竹田駅(-横大路)京駅<烏丸>河五-三京-岡公-銀閣各停:5系統(五条経由)の短縮(土休)
106京駅<七条>祇園→四河→京駅京駅<七条>東三<川端>祇園各停:臨206系統(毎日)
109北大BT-立命-福王子-釈迦堂-嵐山急行:旧臨59系統(繁忙期のみ)
110梅小路-京駅<七条>祇園-岡公86系統に統合し毎日運転
111京駅-堀今→大徳→金閣→堀今該当なし
今回の改訂ポイントは,高運賃の「特急バス」の東山方面への導入であり,一日乗車券の適用対象とすることで観光客の誘導を図るつもりらしいが,現実には地元客の排除にしかならない。並行する206系統にも観光客の乗車は可能である以上,既存の一般系統の混雑解消には寄与しないことは自明で,206系統を一日乗車券の適用対象外とする等,逆の方策が必要になる。しかし混雑はバスの中だけではなく,東山通の渋滞がバスの回転を悪化させ,運転手不足に拍車を掛けている。四条通の歩道拡幅は批判を浴びたが,東山通の歩道は四条通より遥かに狭く,歩行困難な現状を改善するには歩道拡幅(トランジットモール化)の再検討が必要だろう。さらに今回改訂の100番台系統は,殆どが平日に運行されないが,Overtourism問題の発生は曜日を問わないため,毎日運転への変更も検討されるべきだろう。

同時に,17系統→7系統に,73系統→23系統に改称することが発表されている。後者については,元々23系統は三条京阪<七条通>沓掛で,73系統は四条烏丸<五条通>国道沓掛,という並行系統であった為さほど違和感はないが,前者については7系統は三条京阪-六孫のイメージが強く,市北東部のイメージがない※注。どうせ系統番号を変えるなら,市電時代の2系統を踏襲すれば面白かったと思う。市バス2系統は地下鉄開業で廃止され,その後継であった北2系統も,37系統の経路変更で消滅している。
※注:「六孫」は六孫王神社のことだが,市バス方向幕では「三哲」と並び称される行先だった。後者は個人の号に由来するが,前者は単なる省略形。

ただ日本では,軌道とバスは国交省内の監督部局が異なるため,同じ公共交通でありながら全く別物として扱われて来ており,電車とバスの系統番号は重複するのが一般的だ。San Franciscoは,電車系統はアルファベットでバス系統は数字,大連では電車は200番台でトロバスは100番台と,別体系としている例もある。しかしPhiladelphiaでは,当初バスがアルファベット,電車が数字だったが,軌道廃止後の代替バスが同じ系統番号を名乗ったため,数字系統の殆どがバス運行になっている。GenèveWienでも,電車系統とバス系統には一体の番号が振られている。

同じことはバス事業者間でも言えて,例えば市バスの現行17(京都駅-錦林車庫)と京都バスの17(京都駅-大原)は,京都駅発で四条河原町を通る類似点もあるが,全くの別系統で紛らわしい。さらに昨今の運転手不足で,京都バスとの86-北3系統,JRバスとの快速205系統等,他事業者との共同運行が行われるようになったため,特に京都バスでは自社の系統番号に,市バスの系統番号が混在する形になった。そろそろ京都市でも市内を運行するバス事業者間で,系統番号の共通化が必要だろう。まず京都バス・京阪バス・京阪京都交通・JR西日本バス・阪急バス(「京都市域共通回数券」の初期メンバー)の範囲で始めることが考えられる。(4/13/2024*)


第2期系統番号制

市電系統は,1945年3月26日の全面改正から系統番号制に復帰したが,当時は数字の本系統+漢数字の補助系統の組合せだった。鉄道省は43年11月に運輸通信省鉄道総局に改組され,49年6月に現業部門を日本国有鉄道として分離した為,「日本案内記近畿篇・上」の最終版は,49年2月に運輸省名義で刊行されている。

これには市電系統が左表のように掲載されるが,2系統と4甲系統の終点の交換は46年7月1日であり,2系統は51年3月15日に西大路九条に延長されたので,その間の系統を表している。しかし補一系統の終点は46年7月1日に熊野に延長されていた為,必ずしも正確ではない。また11系統(梅津線)では数字の系統板は無かったが,「西大路四条/梅津間」と書かれた系統板が使われていて,終点を「北広町」と称した事実はないと思われる。

系統板の色に関しては,壬生の赤板,烏丸の白板はひらがな時代と同様だが,九条は「緑板」と明記されている。この時期の系統板は長方形だったので,そのサンプルは下図のように描くことができる。系統板が円板に戻るのは,52年12月1日の系統全面改正の時点とされる。ここで疑問なのは,ひらがな時代に「青板」だった九条の系統板を,短い期間「緑板」に変更し,また「青板」に戻す手間を掛けたのかだ。これについては,鉄ピクの京大鉄研臨増第2号(2011年12月)の須田寛氏の記事「敗戦前後の京都市電」の,ひらがな時代に関する以下の記述から否定される。

「系統円板は烏丸庫が白地に黒文字,壬生庫は赤地,九条庫は緑地に白抜き文字,北野(N電)は白地に赤文字であった。」
従って,下の「ひらがな時代の系統板」で「青板」と表現された九条の系統板は,実は「緑板」だったことはほぼ確実だ。日本語では「青信号」や「青葉」のように,「緑」を「青」と記述する慣習があることの弊害だろう。(4/6/2024)

第1期系統番号制

ひらがな時代の系統板は下記事で概ね判明したが,それ以前の「第1期系統番号制」の時代の系統板については更に情報が少ない。左下は「世界の鉄道'83」掲載の,木屋町御池における12系統(再掲)だが,白地の円板が使用されている。電車は下記事の写真と同じN125号車だが,この時点では"vestibule"が設置されておらず,京電市営化後も乗務員は吹き曝しだった。方向幕は「野北廻東」と読めるので,市営化の1918年7月11日から東廻線と西廻線が分断された26年7月13日までの撮影になる。

12系統は写真の当時,北野~西廻線~烏丸塩小路~東廻線~北野の循環系統だった。下記事にも登場する鉄道省編「日本案内記近畿篇・上」の旧版(1932)には,上表のように系統が紹介されている。その内容を系統図にしたものが右下だが,時期的には31年9月18日の河今-百万間開業以降,同年12月25日の大徳-烏車間開業以前であり,東七-東福間が4系統を称することから,同年10月10日以降の2ヶ月間の系統を表現している。なお上表では2系統が七条烏丸で西~北に転線したように読めるが,実際には京都駅前ループ線に入って折返す運用だった。

ひらがな時代には,循環系統では「あ-い」や「む-め」のように,隣接する文字を逆回りの系統に割当てていた。第1期系統番号制では,循環系統にも単一の数字を割当てたが,反時計回りが白板,時計回りが赤板のように,系統板の色で区別したことが判る。ここでは循環系統となる2-5-6系統以外に,系統図に赤線で示した1-12-17の3箇系統についても赤板が採用されている。これらが基幹系統であったか否かは不明だが,何らかの区別があったのかも知れぬ。

なお左下の12系統は白板になっているが,これは反時計回りの系統であり,逆回りには赤板が用いられたと推察できる。その場合,烏丸塩小路から西廻線で北野へ向かう系統は赤板だったはずで,それが単純な往復系統になっても維持されたのだろうか?(3/17/2024)


ひらがな時代の系統板

壬生 烏丸 九条 北野
戦前1935年から45年の10年間,京都市電系統はひらがなを採用しており,当時の系統板が円形であったことは写真から判っているが,白黒写真では色は判らない。上のリストは,鉄道省編「日本案内記近畿篇・上 改版」(博文館1941年刊)に掲載された京都市電の案内である。ここに掲載されるのは京都駅前発着の13箇系統のみで,以下のように纏められる。1939年7月の系統と基本的に一致するが,(う)系統については北大路経由の誤りである。
京都駅前ループ線烏丸塩小路(東)烏丸塩小路(西)
う-ゑ-き-ち-つ-ねを-く-た-と-も-や
ここには系統板の色が「白板」「赤板」「青板」と明記されている。赤板が壬生所属,青板(伏見線)が九条所属であり※注,北野は「白板赤字」と後年の10系統と同じ色遣いだったようだ。当時烏丸が後の錦林のような白板であったことも判るが,文字色は特に注記がないので黒字と考えるのが自然だろう。

左下の系統図は2016年6月頃Web上で拾ったものだが,どのページだったか出自は不明だ。京都駅以南が欠損しているため,細かい時期の特定は困難だが,37年4月の千今直進軌道敷設以降,38年12月の西七~西八間開業以前の状態を表しており,壬生の(う-ゑ)系統が北大路経由の循環運転である点が上のリストとは異なる。図には系統板の絵が添えられていて,烏丸所属系統は白地に黒字で表現されている。
※注:九条の「青板」だが,実は「緑」が「青」と表現されていたことが判明した為,系統板サンプルの色を変更した。

戦後,銀閣寺操車場は壬生の担当だったが,この系統図から当時は烏丸の所管だったことが判る。(き)系統は,後に行先が高野に変更されたが,高野操車場もまた烏丸の担当だった。この結果,か行の系統は(か-け-こ)が壬生,(き-く)が烏丸,な行は(な-に)が壬生,(ぬ-ね-の)が烏丸と,分割管理されていた。

系統図では,北野の(ろ)系統が薄青~灰色バックになっているが,右中の交通局archiveの写真(恐らくは北野終点のN125号。この写真の主眼は女子車掌の登場にある)は,白板赤字と矛盾しない。右下に当時の系統板(円板)のサンプルを作成してみた。写真を見る限り「縁なし」であり,前部のみに掲出された為,後方からの系統特定は困難だった。(2/29/2024)


安全地帯

安全地帯が拡幅された現在の長崎駅前。エレベータは手前階段の外側に設置。(2023.4)
京都市電の交差点における安全地帯は,交差手前が原則だったが,多くの交差点で1965年頃に交差後に変更された(詳しくはこちらを参照)。交差手前での信号待ち車両の輻輳を緩和する為だろうが,結果的に電車の2面待ちをしなくて良くなった。たとえば河今から百万遍だと,東行が東詰に統合されれば,西詰の1-22系統と南詰の2-12系統の両睨みが不要になる。一方,河今から烏車以西に行く場合は,南詰で5-15系統を待てば済んだのが,北詰の5系統と西詰の15系統の両睨みが必要になったが,こうした例は稀だろう。

例えば河原町線だと,今出川と四条が交差後に変更され,丸太町と七条は交差手前に存置される等,交差点ごとに統一的に行われることが一般的だったが,図の千丸・烏丸のように,南北方向は交差後,東西方向は交差手前と混在した交差点もあった。両交差点とも直進系統のみが運転されたため,一見問題は無いように見えるが,問題は千丸で曲がる初電・終電時の臨20出入庫系統である。終電が東詰と南詰で2重停車になるのは良いとしても,初電については乗降を扱える場所が無いことになる。この壬生5:06発の銀閣寺行に乗った経験は無く,南詰・東詰の何れで扱ったかは定かでないが,京都市電の安全地帯配置におけるほぼ唯一のバグと言える。(正解は千本線の安全地帯を南詰の相対式にすることだろう。)

伏見線は変則軌道だった為,南行は路側乗降になる停留場が多く,さほど危険ではなかったが,北行については路側乗降となる肥後町・丹波橋・棒鼻と,伏見線唯一の安全地帯が設置された十条通を除いて路面マーキングのみで,その危険性が路線廃止の口実とされた。また西大路駅前・西大路九条・京阪国道口の3ヶ所の安全地帯は,横断歩道橋直結の相対式だったが,バリアフリーとは程遠い,自動車優先の時代だった。近年まで同様の構造だった長崎駅前電停には,エレベータが整備されている。(2/17/2024)


京都駅前東乗降場(2)

↑1 ↓3↓4 ↑2           ↓5
京都駅前ループ線は1952年8月1日に休止となり,9月20日には3線式の駅前ターミナルが完成したが,東乗降場の方は,連絡線は建設されたものの塩小路線とは接続されず,長らく複々線状態で放置された。図1(「市電・市バス」9号,58-3)は58年12月31日に仮供用した東乗降場のアーケードに言及しているが,これは後の伏見線側ホーム上屋を指す。60年度から「成績調書」(年報)の発行が停止されたため,詳しい記録を辿ることは難しいが,塩小路線との接続は60年7月,河原町線側上屋を含む工事完成は同年9月とされる。[過去記事]

東乗降場移設後は,駅本屋寄りの東1番線が伏見線,反対側の東2番線が河原町線で運用されたが,それ以前の運用方法は定かではない。本HPでは塩小路通上にあった時代には逆に記載しているが,図2(小山徹「京大鉄研雑誌」1957による)が1つの根拠になっている。(この図にも誤りはあって,18系統は行先に応じて両方の番線に入ったはずだ。)たとえばJ.W.Higginsによる写真3では,連絡線直近の旧東1番線に2系統1000型が入線しているのが確認できる。58年度版成績調書に掲載された,アーケードの完成写真(写真4)では,旧東1番線に600型,旧東2番線に800型が入線しているように見えるが,1000型が写っていれば河原町線が特定できた。

需要の大きい河原町線が駅本屋寄りに来るのは,西乗降場の烏丸線同様,理に適ってはいるが,セミクロスシートのパンタ試験車(9系統中書島行)を捉えた写真5(1951西城浩志蔵,「鉄ピク」2011年12月臨増による)は,背後にトロリーポールが見えるので旧東1番線であり,逆の運用がされていた時期もあるようだ。「市電・市バス」1号(54-5)掲載の「電車乗務員座談会」では,北野所属の林氏が,「京都駅前の河原町線-伏見線-北野線等の案内札を立ててもらいたい」と発言されているので,写真5の「伏見線のりば」の標識は,連絡線の工事に伴ってその後撤去された可能性がある。いずれにせよ,西乗降場に比べて東乗降場の写真は(晩年を除いて)目にすることが少ないので,実際のところ記憶を辿るのが難しい。(2/8/2024)